ミッフィーのおうち

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【映画感想】 カールティク・スッバラージ監督『ジガルタンダ・ダブルX』(172分/2023/インド)

 先日、話題のインド・タミル語映画「ジガルタンダ・ダブルX」を鑑賞しました。銃と権力に8mmカメラで立ち向かう王道左翼映画ながら、ストーリーラインの起伏やダンス・アクションシーンの圧倒的なスペクタクルさはもちろん、<カメラを向ける-向けられる>権力勾配や暴力への批評性をも持ち合わせる、傑作エンタメ作品です。
 とりわけドキュメンタリーの作り手として、厳しくも愛ある檄を飛ばされる稀有な映画体験でした。以下、若干のネタバレを含みつつ、僕が特に魅力的に感じた作品のエッセンスを紹介していきます。

 作品の大まかな流れは、「西部劇のレジェンドたるクリント・イーストウッドに憧れるギャング、シーザー。自身の映画を制作しようとするシーザーの元に、彼の殺害を試みる警察官キルバンがサタジット・レイの現場で映画を学んだと嘘をついて潜入、映画監督に抜擢。制作を進めるにつれ、映画の方向性も二人の関係性も、思わぬ方向に転がっていき…」というもの。インド映画らしく3時間の大作で、前半・後半パートで構成されており、本国ではインターバルを挟んで上映されているようです(このインターバルを活かした秀逸な演出についても後ほど触れます)。
 目配せされている要素は多岐に渡りますが、今回は主に、「良きディレクションとは何か」「良きレファレンスとは何か」この二つの問いについて、作品を通じて考えたいと思います。

 

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▼1.「良きディレクション」とは何か
 この作品のストーリーは、シーザーのドキュメンタリー制作現場の動きに沿って紡がれていきます。注目したいのは、前半/後半を通じて制作の主導権がスイッチする瞬間です。つまり、作品前半では「シーザー自身が望むシーザーのペルソナを描く」という目的に従って撮影が進むのに対し、後半では監督キルバンの”意図”に従って撮影が進むという構成になっています。脚本上は、限られた時間の中でシーザー殺しを達成しようと、シーザーを自然に危険な状況へ誘導するための仕掛けとして描かれますが、キルバンが意図しようがしまいが、キルバンが映画制作に巻き込まれていくうち、その魅力に取り憑かれ、監督としての自我が立ち上げられていきます。この過程の中で、キルバンはシーザーにも変化を要求します。これまでは悪党一辺倒であったシーザーに対し、故郷を救うために戦え、その密着映像でより魅力的な作品を作ってみせる、と説得するのです。
 こうしたキルバンとシーザーの変化へ強烈に共鳴するのは、ドキュメンタリー業界で「良いディレクション」として共有されるストーリーテリングのテクニックです。「現状に不満を持ちつつ踏ん切りもつかない主人公を見つけ、その人を崖から突き落とし、”何か”を手に入れるための”旅”を通じて、主人公の挫折や葛藤を描く……」 少年漫画のエッセンスとも通じるテクニックで構成されたドキュメンタリーは、単なる記録映画とは全く次元の異なる、見る人の感情へ直接訴えかける作品となります。裏を返せば、「魅力的なディレクション」とは、他者の(ときにはディレクター自身の)人生に介入し、不可逆な変化を要求する暴力と切っても切り離せないのです。
 作品内の様々な舞台装置も、この「カメラの暴力」についての議論を効果的に演出しています。例えば、キルバンが手に持っている8mmカメラ。カメラを構えた出立ちは、まるで銃を撃つのとそっくりです(この必然性を担保するために、時間軸も1970年台に設定されています)。終盤の最高潮、シーザーが撃たれ、カメラ越しに初めてキルバンが涙を流しますが、このシーンが描くのは単なる「シーザーの劇的な死に対する友人としての悲しみ」ではなく、むしろ、「映像がハネた瞬間」への監督としての興奮、「映像をハネさせるためには他者を不可逆に変化≒傷つけなければならないディレクターの暴力性」への気づき、そして、それらの矛盾を全て引き受けるキルバンの監督としての「覚悟」なのだと理解できます。
 以前、英会話の間違いとして「”I shoot them.”だと”その人を撃つ”となってしまうので、”I shoot video.”としようね」というやりとりをしたことがあるのですが、この映画が徹頭徹尾訴えるのは、むしろ「カメラを向けるということは、その人を”撃つ”ということである」というメッセージです。そして、まさに「カメラと銃が同等に持つ暴力性」のメタファーとして、ポスタービジュアルにも使われたシーザーとキルバンが銃とカメラで対峙するシーンが描かれ、同時にそれは、「カメラは銃に抵抗できるだけの力を持つ」というストーリー全体へのメタファーとしても機能しています。脚本のあまりの美しさに、鳥肌が立ちます。

 「ディレクション」論の余談として、もう一点言及したいシーンがあります。前半、後半と一度ずつ、「物語は自ずと描かれる…」というキルバンのセリフが登場するのですが、このふたつのセリフの微妙な違いに注目したいのです。前半は、準備時間もなく撮影を要求するシーザーへの、「物語はおのずと書かれる。早速今夜から撮ろう」。一方後半では、迫り来る危機に際して励ましを求めるシーザーへの返事というシーンで、「ただしっかりペンを握れば、書かれるべきものは必ず書かれる。(Just hold the pen firmly and what ever is meant to be written will be written.)」となっています。
 「しっかり握る」とはどういうことでしょうか。すなわち、目の前で起きている事象を観察者として撮るのではなく、常にシーン作りに考えを巡らせながらカメラを構える根気。たとえ自分の命が危険に晒されかねない状況でも、立ち位置や話し方など、シーンを作るための細かな演出にこだわり続ける勇気。それらを辛抱強く重ねていけば、というよりも、辛抱強く重ねなければ、良いものなんてできやしない…という叱咤激励として、この台詞を受け取りたいと思います。


▼2.「良きレファレンス」とは何か
 ディレクション論と共に、作品を通じて一貫して問われているのが、「良きレファレンスとは何か」という問いです。
 クリント・イーストウッドからシーザーへ、シーザーからキルバンへと戦いが受け継がれていく様を見ていて頭によぎったのは、ひょんなきっかけから政治的運動や抵抗の中へ「巻き込まれ」ていく瞬間の、過去からバトンを受け取ってしまった…という感覚でした。「YOU DONT CHOOSE ART ART CHOOSES YOU.」という煽り文は、単にキルバンと映画の出会いを運命的、ドラマティックなものとして強調したいためのものではなく、しばしば既に死んでいった者や、現場からすでに去った先人たちが遺した言葉が、あなたを政治的に主体化するときが突然訪れることがある…という、反差別や社会運動に関わる人あるある(?)の感覚を表現したものなのではないでしょうか。自分一人の人生で完結しない歴史の連続の中に身を投じ、自分の足元を知り、そして自分を誰かの肥やしとし、自分の人生を自分の手からをも手放す勇気を持つ、そういう瞬間。
 映像作品含め、アートは常にレファレンスの厚みが作品の評価と直結するものです。一方で、本来その振る舞いは本質的に非常に政治的であるはずで、なぜならレファレンスとは自分の現在地を歴史や文脈の中に位置づけ直す営みで、その姿勢は歴史修正主義植民地主義の欲望と相反するものだからです。「ジガルタンダ・ダブルX」は、西部劇への強烈な愛をもってなぞりつつ、それを内輪のミームとして遊ばず、むしろ自分にとって切迫した抵抗への原動力に転化し、新たな価値を練り上げていく様が描かれていく過程が、素晴らしいです。
 しばしばレファレンスやオマージュは内輪になりがちで、例えば僕はアニメ映画監督の今敏作品が大好きなのですが、『Perfect Blue』のオマージュとしての『ブラック・スワン』は非常に頂けなかった。今敏氏は、アニメーションならではのカット繋ぎの手法を徹底的に追求した点に特徴がありますが、『ブラック・スワン』は実写ならではの映像に何ができるか、というアンサーを示せていません。『Perfect Blue』を知っていれば多少「ああ、ここのシーンはあれね〜……」となる程度で、こういうものってボーイズクラブっぽいというか、ホモソーシャルな文化だなあとよく感じます。
 話が若干逸れましたが、自分が熱中するものや、エンパワーされた経験などを解釈・再構築する際に、内輪ネタで自己完結するのではなく、社会に開き直していくことの重要性を、「ジガルタンダ・ダブルX」は説いているのではないでしょうか。

 ところで、余談ですが、「メタ演出」の乗りこなし方もとても勉強になりました。「メタ演出」も、しばしば「メタ演出好き」のためのトートロジーになりがちな節がありますが、この作品では、「観客を映画制作に参加させるため=『観客』から『キルバンからバトンを渡されるもの』に主体化させるため」という、確固とした目的をもってこの手法が採用されています。メタ演出によって、観客も制作陣に参画されていき、観客が観客でいることを許さない=「映画の先を予想させて楽しませる」のではなく、「どんな面白い映画が撮れるか」というワクワク感にすり替えさせる。この演出によって、観客はシーザーが撃たれる瞬間を他人事としてではなく、自分の痛みとして引き受けさせられるのです。うーん、何度脚本を練り直せばこれほど完璧なものが書けるのだろうか……。

 

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 かくして、「ジガルタンダ・ダブルX」は個人的なお気に入り映画に殿堂入りしたわけですが、非の打ちどころがないわけではなく、やはりフェミニズムクィア視点に欠けているところは指摘もしておきたいです。本作をさらにレファレンスし直して、より良い物を練り上げていかねばならぬなあと思うところ。
 日本国内の公開は9月からでしたが、公式ウェブサイトを確認したところ、年末にかけて全国でまだまだ上映されるようです。ちなみに、Netflixでも英語版に設定すると視聴可能です(ただし日本語字幕はなし)。少しでも多くの人に見にいってもらえたらいいなと思います。

 

★映画「ジガルタンダ・ダブルX」公式ウェブサイト:https://spaceboxjapan.jp/jdx/

 

【映画感想】 白田悠太監督『ブライトロード303号室奥田美紀様宛て』(98分/2023/日本)

 インディーシーンでクィアな映画作品を発表し続けている白田さんの最新作、『ブライトロード303号室奥田美紀様宛て』を紹介します。

 白田監督の作品を初めて拝見したのは、2021年の関西クィア映画祭(僕は当時実行委員をしておりました)。映画祭のいち企画「国内作品コンペティション」にて応募された白田さんの『みんなバカ野郎だ』、この作品が特に強く心に残り、その後も個人的に白田さんのご活動を追っていました。

 今作が初めての長編作ということで、既にいくつかの映画祭で受賞されていますが、先日「日本映像グランプリ2023」の記念上映会でようやく鑑賞の機会を得ました。結論から申し上げると、間違いなく素晴らしい作品だし、ぜひとも多くの方に見てほしい作品です。セクシュアルマイノリティの権利運動が主流化し、単なるエンタメ商業の道具としての、もしくはマジョリティに都合よくステレオタイプ化された「LGBT」の物語が増える中で、白田さんが追求する「クィア当事者によるクィアな物語」の作品、また制作への姿勢から、非常にエンパワーされましたし刺激を受けました。

 では、以下、『ブライトロード303号室奥田美紀様宛て』の紹介と感想です。

 

 

▼作品内容 ※ネタバレを含む

 コロナ禍に東京で暮らす、二人の孤独なレズビアン女性の出会いと関係性を描いたメロドラマ。

母との関係性がうまくいかず、バイトを転々としワンナイトを繰り返す春子。ヨガの教室を一人で経営するも、息子との関係がうまくいかない美紀。配達アルバイトの春子が美紀へ荷物を届けたことをきっかけに、二人は出会い、お互いへの気持ちを募らせていく。

 次第に親密な関係に発展するが、一筋縄ではいかない。美紀は、若い頃の結婚相手との間に大学生の一人息子がおり、何かと気にかけているものの、息子は自身を「レズビアンの母さんには邪魔な存在だった」と感じており、関係性は冷えてしまっている。クリスマスの日、ケーキを持って訪ねてきてくれるも、遊びにきていた春子がベットに横たわっているのをたまたま目にし激昂。美紀は強いショックを受ける。

 さらに、街中で春子とハグしているところをあるヨガ教室の生徒に目撃され、「先生はレズビアン」とのアウティングや、「生徒を盗撮している」などの誹謗中傷により、ヨガ教室を畳まざるを得なくなる。春子は美紀に寄り添おうとするが、贈ったはずの赤いマフラーを身につけていない美紀の姿を見て、「美紀は冷めた」と思い込み、二人の気持ちはすれ違ってしまう。

 しばらくして、マフラーは配達ミスだったことが判明し、二人はもう一度歩み寄ろうとする。二人は、お互いが共にいるために、それぞれ抱えた人生の課題に向き合い直すことが欠かせないと思い至る。美紀は春子とともに息子の元を訪ね、自分のセクシュアリティについて、また息子への愛情について、素直に思いの丈を語りかける。一方、春子は、「小さい頃、母親の体を同意なく触ってしまったことが断絶のきっかけ。家族と語る時間が必要だ」と打ち明ける。止まったままの人生を再び前に進めるため、春子は家族に会いに行こうと、実家のある茨城へ旅立つ。

 

▼感想

 鑑賞していてまず感じたのが、プロットの『キャロル』へのオマージュでした(全く意図されていなかったら申し訳ない…)。「一回り年の差のある二人の女性」「過去の結婚と子どもをめぐって悩みを抱える年上キャラ」「忘れ物がきっかけの出会い」「アウティングが原因で関係性が壊れ、ラストで修復される」、などの要素。僕も大好きな関係性なので、こういうシチュエーションに非常に萌え!て興奮するのですが…

 本作は、単なるオマージュに留まらない、メインストリームのエンタメ作品の限界を打ち破ろうとする強い意志を感じました。

 

 白田さんは、本作について、「エンターテイメントとして消費されることのない性的マイノリティの日常と苦悩を描いた作品を目指しました」と語っています。つまりこれは、「キャラクターの感情の論理と変遷を丁寧に掬い取ることを、プロットのキャッチーなドラマ性のために犠牲にしない」ということだと思います。

 この真摯さが最もよく発揮されているのは、まず、二人の出会いシーン。「キャロル」では、テレーズの職場(デパート)を訪れたキャロルの忘れ物を届けるため、テレーズはプレゼント配達の住所をもとにコンタクトを図ります。その後の二人の関係性の展開は非常に感動的なのですが、ふと思うのは、「いや、上手くいってるからいいけど、相手が嫌がってたら普通にストーカーやぞ……??」 一方、『ブライトロード303号室奥田美紀様宛て』では、二人の関係性のきっかけは配達業務ではあるものの、仕事中上司からのセクシュアルハラスメントや、春子の慎重な性格を描くことで、業務で得た情報をプライベートに利用することの危うさに釘を刺しています。

 また、二人が関係性を深めていくまでのやりとりも印象深い。美紀は春子に比べ、圧倒的な人生の経験値を重ねており、恋愛関係を結んだ場合に当然、二人の間には大きな権力差が生まれうる可能性があります。春子に口説かれても躊躇してしまう美紀の優柔不断さには、二人の物語をウケる紋切り型のプロットに押し込めないぞという気概を感じました。

 

 さて、『ブライトロード303号室奥田美紀様宛て』成功しているものをもう一つ紹介します。それは、「創作において、物語のミッドポイントに『アウティング』を位置付けることの危険性にどう向き合うのか」という問いです。

 セクシュアルマイノリティのキャラクターを主眼に置いた作品は、「アウティング」をきっかけに物語が大きく動いていくものが多数あります。確かに、残念ながら我々が生きているこの地獄のような世界では、アウティングをきっかけに命を奪われたり、職を失ったり、集団からパージされたり、そういった「悲劇」が多く起きていますし、間違いなく取り組まなくてはならない課題でもあります。

 とはいえ、セクシュアリマイノリティーの人間にとって、必ずしも人生のターニングポイントの大多数が「アウティング」をきっかけにするわけではありません。それなのになぜ、多くのセクシュアルマイノリティーのドラマ作品は、悲劇に直面した主人公の立ち振る舞いにばかり注目してしまうのか。そこには間違いなく、マジョリティがセクマイの生に対して非常に低い解像度しか持っていないこと、特権を問われないまま安心して消費できる可哀想な物語しか歓迎しない態度など、様々な問題が孕んでいます。

 白田監督は、これまでの作品でも一貫して「アウティング」を描こうと試行錯誤されています。(全く的外れな発言でしたら本当に申し訳ないのですが、)ある意味で「執着」と言えるほど真摯な取り組み様は、ご自身のご経験を再構築・再解釈したいという強い意志を感じさせます。きっと、白田監督自身がこれまでの人生を振り返り、この先の人生の舵取りを考える時、避けては通れない課題なのだと思います。

 『ブライトロード303号室奥田美紀様宛て』において、生徒が美紀に対して犯したアウティングは、物語の構成全体にとって非常に重要な位置付けなのですが、その際、美紀はただしおらしく打ちのめされるのではなく、力強く「あんたが壊しているのは人の人生なのよ(すみません、原文ママは忘れてしまいました)」と叫びます。このセリフと演技の自然さに僕も強く共鳴し、思わず号泣してしまったのですが、このシーンには、「絶対に悲劇を単なるエンタメとして消費させない、お前(社会)が自分をどれだけ傷つけ追い詰めてきたのか、思い知ってほしい」という怒りが込められていました。

 

 それから、もう一つ個人的な推しポイント。白田さんが関西クィア映画祭に出品されたのは「国内コンペティション」の2回目だったのですが、1回目のコンペでグランプリを受賞された、稲津勝友さんという監督がいます。稲津監督も、自分自身の魂を徹底的に追求する非常に心揺さぶられる作品を制作される素晴らしい作り手なのですが、どうやらお二人はたびたび一緒に制作されているようで。ニュースの街録に参加されていたらしく、「声の出演」クレジットでお名前を拝見した瞬間、確実に日本の映像業界にも革命が起きつつあると感じ、胸が熱くなりました。

 

 監督メッセージによると、メインの役者さん4人と即興演技や対話を通じて脚本を練っていったということで、しかも、その役者さんたちの中には、白田監督の作品に何度も出演されている方もいます。作品そのものだけではなく制作の現場にも大変興味を掻き立てられました。某映画祭では、某審査員が「白田監督はLGBTQネタじゃなくてもいいもの作れるだろうし色々挑戦してほしい云々」などとコメントされていましたが、僕としては今後もっともっと作品を通じて白田監督という人を知りたいし、セクシュアルマイノリティー当事者が人生を見つめ直す勇気をもらえるような素晴らしい作品を作り続けてほしい、と思っています(これは某審査員への悪口です)。

 

★白田悠太監督 Twitterhttps://twitter.com/hakutayuta Youtubehttps://www.youtube.com/@user-eg6jy6pv6w