先日、話題のインド・タミル語映画「ジガルタンダ・ダブルX」を鑑賞しました。銃と権力に8mmカメラで立ち向かう王道左翼映画ながら、ストーリーラインの起伏やダンス・アクションシーンの圧倒的なスペクタクルさはもちろん、<カメラを向ける-向けられる>権力勾配や暴力への批評性をも持ち合わせる、傑作エンタメ作品です。
とりわけドキュメンタリーの作り手として、厳しくも愛ある檄を飛ばされる稀有な映画体験でした。以下、若干のネタバレを含みつつ、僕が特に魅力的に感じた作品のエッセンスを紹介していきます。
作品の大まかな流れは、「西部劇のレジェンドたるクリント・イーストウッドに憧れるギャング、シーザー。自身の映画を制作しようとするシーザーの元に、彼の殺害を試みる警察官キルバンがサタジット・レイの現場で映画を学んだと嘘をついて潜入、映画監督に抜擢。制作を進めるにつれ、映画の方向性も二人の関係性も、思わぬ方向に転がっていき…」というもの。インド映画らしく3時間の大作で、前半・後半パートで構成されており、本国ではインターバルを挟んで上映されているようです(このインターバルを活かした秀逸な演出についても後ほど触れます)。
目配せされている要素は多岐に渡りますが、今回は主に、「良きディレクションとは何か」「良きレファレンスとは何か」この二つの問いについて、作品を通じて考えたいと思います。
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▼1.「良きディレクション」とは何か
この作品のストーリーは、シーザーのドキュメンタリー制作現場の動きに沿って紡がれていきます。注目したいのは、前半/後半を通じて制作の主導権がスイッチする瞬間です。つまり、作品前半では「シーザー自身が望むシーザーのペルソナを描く」という目的に従って撮影が進むのに対し、後半では監督キルバンの”意図”に従って撮影が進むという構成になっています。脚本上は、限られた時間の中でシーザー殺しを達成しようと、シーザーを自然に危険な状況へ誘導するための仕掛けとして描かれますが、キルバンが意図しようがしまいが、キルバンが映画制作に巻き込まれていくうち、その魅力に取り憑かれ、監督としての自我が立ち上げられていきます。この過程の中で、キルバンはシーザーにも変化を要求します。これまでは悪党一辺倒であったシーザーに対し、故郷を救うために戦え、その密着映像でより魅力的な作品を作ってみせる、と説得するのです。
こうしたキルバンとシーザーの変化へ強烈に共鳴するのは、ドキュメンタリー業界で「良いディレクション」として共有されるストーリーテリングのテクニックです。「現状に不満を持ちつつ踏ん切りもつかない主人公を見つけ、その人を崖から突き落とし、”何か”を手に入れるための”旅”を通じて、主人公の挫折や葛藤を描く……」 少年漫画のエッセンスとも通じるテクニックで構成されたドキュメンタリーは、単なる記録映画とは全く次元の異なる、見る人の感情へ直接訴えかける作品となります。裏を返せば、「魅力的なディレクション」とは、他者の(ときにはディレクター自身の)人生に介入し、不可逆な変化を要求する暴力と切っても切り離せないのです。
作品内の様々な舞台装置も、この「カメラの暴力」についての議論を効果的に演出しています。例えば、キルバンが手に持っている8mmカメラ。カメラを構えた出立ちは、まるで銃を撃つのとそっくりです(この必然性を担保するために、時間軸も1970年台に設定されています)。終盤の最高潮、シーザーが撃たれ、カメラ越しに初めてキルバンが涙を流しますが、このシーンが描くのは単なる「シーザーの劇的な死に対する友人としての悲しみ」ではなく、むしろ、「映像がハネた瞬間」への監督としての興奮、「映像をハネさせるためには他者を不可逆に変化≒傷つけなければならないディレクターの暴力性」への気づき、そして、それらの矛盾を全て引き受けるキルバンの監督としての「覚悟」なのだと理解できます。
以前、英会話の間違いとして「”I shoot them.”だと”その人を撃つ”となってしまうので、”I shoot video.”としようね」というやりとりをしたことがあるのですが、この映画が徹頭徹尾訴えるのは、むしろ「カメラを向けるということは、その人を”撃つ”ということである」というメッセージです。そして、まさに「カメラと銃が同等に持つ暴力性」のメタファーとして、ポスタービジュアルにも使われたシーザーとキルバンが銃とカメラで対峙するシーンが描かれ、同時にそれは、「カメラは銃に抵抗できるだけの力を持つ」というストーリー全体へのメタファーとしても機能しています。脚本のあまりの美しさに、鳥肌が立ちます。
「ディレクション」論の余談として、もう一点言及したいシーンがあります。前半、後半と一度ずつ、「物語は自ずと描かれる…」というキルバンのセリフが登場するのですが、このふたつのセリフの微妙な違いに注目したいのです。前半は、準備時間もなく撮影を要求するシーザーへの、「物語はおのずと書かれる。早速今夜から撮ろう」。一方後半では、迫り来る危機に際して励ましを求めるシーザーへの返事というシーンで、「ただしっかりペンを握れば、書かれるべきものは必ず書かれる。(Just hold the pen firmly and what ever is meant to be written will be written.)」となっています。
「しっかり握る」とはどういうことでしょうか。すなわち、目の前で起きている事象を観察者として撮るのではなく、常にシーン作りに考えを巡らせながらカメラを構える根気。たとえ自分の命が危険に晒されかねない状況でも、立ち位置や話し方など、シーンを作るための細かな演出にこだわり続ける勇気。それらを辛抱強く重ねていけば、というよりも、辛抱強く重ねなければ、良いものなんてできやしない…という叱咤激励として、この台詞を受け取りたいと思います。
▼2.「良きレファレンス」とは何か
ディレクション論と共に、作品を通じて一貫して問われているのが、「良きレファレンスとは何か」という問いです。
クリント・イーストウッドからシーザーへ、シーザーからキルバンへと戦いが受け継がれていく様を見ていて頭によぎったのは、ひょんなきっかけから政治的運動や抵抗の中へ「巻き込まれ」ていく瞬間の、過去からバトンを受け取ってしまった…という感覚でした。「YOU DONT CHOOSE ART ART CHOOSES YOU.」という煽り文は、単にキルバンと映画の出会いを運命的、ドラマティックなものとして強調したいためのものではなく、しばしば既に死んでいった者や、現場からすでに去った先人たちが遺した言葉が、あなたを政治的に主体化するときが突然訪れることがある…という、反差別や社会運動に関わる人あるある(?)の感覚を表現したものなのではないでしょうか。自分一人の人生で完結しない歴史の連続の中に身を投じ、自分の足元を知り、そして自分を誰かの肥やしとし、自分の人生を自分の手からをも手放す勇気を持つ、そういう瞬間。
映像作品含め、アートは常にレファレンスの厚みが作品の評価と直結するものです。一方で、本来その振る舞いは本質的に非常に政治的であるはずで、なぜならレファレンスとは自分の現在地を歴史や文脈の中に位置づけ直す営みで、その姿勢は歴史修正主義や植民地主義の欲望と相反するものだからです。「ジガルタンダ・ダブルX」は、西部劇への強烈な愛をもってなぞりつつ、それを内輪のミームとして遊ばず、むしろ自分にとって切迫した抵抗への原動力に転化し、新たな価値を練り上げていく様が描かれていく過程が、素晴らしいです。
しばしばレファレンスやオマージュは内輪になりがちで、例えば僕はアニメ映画監督の今敏作品が大好きなのですが、『Perfect Blue』のオマージュとしての『ブラック・スワン』は非常に頂けなかった。今敏氏は、アニメーションならではのカット繋ぎの手法を徹底的に追求した点に特徴がありますが、『ブラック・スワン』は実写ならではの映像に何ができるか、というアンサーを示せていません。『Perfect Blue』を知っていれば多少「ああ、ここのシーンはあれね〜……」となる程度で、こういうものってボーイズクラブっぽいというか、ホモソーシャルな文化だなあとよく感じます。
話が若干逸れましたが、自分が熱中するものや、エンパワーされた経験などを解釈・再構築する際に、内輪ネタで自己完結するのではなく、社会に開き直していくことの重要性を、「ジガルタンダ・ダブルX」は説いているのではないでしょうか。
ところで、余談ですが、「メタ演出」の乗りこなし方もとても勉強になりました。「メタ演出」も、しばしば「メタ演出好き」のためのトートロジーになりがちな節がありますが、この作品では、「観客を映画制作に参加させるため=『観客』から『キルバンからバトンを渡されるもの』に主体化させるため」という、確固とした目的をもってこの手法が採用されています。メタ演出によって、観客も制作陣に参画されていき、観客が観客でいることを許さない=「映画の先を予想させて楽しませる」のではなく、「どんな面白い映画が撮れるか」というワクワク感にすり替えさせる。この演出によって、観客はシーザーが撃たれる瞬間を他人事としてではなく、自分の痛みとして引き受けさせられるのです。うーん、何度脚本を練り直せばこれほど完璧なものが書けるのだろうか……。
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かくして、「ジガルタンダ・ダブルX」は個人的なお気に入り映画に殿堂入りしたわけですが、非の打ちどころがないわけではなく、やはりフェミニズム・クィア視点に欠けているところは指摘もしておきたいです。本作をさらにレファレンスし直して、より良い物を練り上げていかねばならぬなあと思うところ。
日本国内の公開は9月からでしたが、公式ウェブサイトを確認したところ、年末にかけて全国でまだまだ上映されるようです。ちなみに、Netflixでも英語版に設定すると視聴可能です(ただし日本語字幕はなし)。少しでも多くの人に見にいってもらえたらいいなと思います。
★映画「ジガルタンダ・ダブルX」公式ウェブサイト:https://spaceboxjapan.jp/jdx/